鳩山政権の危機的状況について

 長らく自民党が政権を担い、野党は批判勢力として存在する時代が続いた。野党は「いちど私たちにやらせてみてください」と繰り返し政権交代を主張してきた。昨年、ついに「いちどやらせてみよう」ということになった。まあ、初めてのことなので、いろいろ不手際があっても大目にみよう、そのうち慣れてくるだろうと温かな目で見守られながら鳩山政権は船出した。
 そもそも、なぜ政権交代が必要だったのか。それは、自民党政権ではできないこと、あるいは自民党政権がやらないことを新しい政権ならやってくれるのではないかとの期待があってのことだった。だから、鳩山政権は、自民党がやらなかったこと、やれなかったことを次々やればよかったはずだ。「コンクリートから人へ」とか、「控除から手当へ」といったスローガンは、新しい政権の基本姿勢を示すものとして、好意的に受け止められていた。だから、その線でぐいぐい押せばよかったはずである。
 ところが、その「新しい試み」のいくつかが霞んでしまうほどに、「自民党政権と同じ」と思わせる話題が続いた。その最たるものが小沢一郎周辺の政治資金をめぐる疑惑であり、また、支持団体へのあからさまな利益誘導だ。郵政しかり、高速道路しかりである。
 新しい政治を求めて政権交代に期待を寄せていた人々は、鳩山政権が思ったより新しくない、顔は変わったが結局古い政治が引き続き行われているのだと思わざるを得ないような状況に、落胆し、失望している。
 
 ところで、普天間基地の移転をめぐるここのところの右往左往は、おそらく「自民党政権ではできないこと」をやろうと試みたが、結局うまくできませんでした、ということなのではないかと思う。これは、「古い政治が引き続き行われている」というのとは違う問題で、政権を批判する側は注意深く分けて論じたほうがいい。
 「いちど私たちにやらせてみてください」というのでやらせてみたけれど、なんのことはない、そんな能力はなかったよ、という事態だとして、これをどう考えるか。極端にいえば、「うまくできなかったのは残念。でも方向性は間違っていないのだから諦めずにがんばれ」という立場と、「能力のない政治家に政治を委ねておくことはできない。退陣せよ」という立場がありうるだろう。
 いずれの立場からみても、現在想定されている着地点、すなわち、結局は自民党が作った当初案の線で基地を移転するが、ほんの少し修正を加えて「自民党がやらなかったこと」をやったようにギリギリのところで体裁を整えるという結末は、最もダメな手であるように思える。今回の断念をひとつの中間地点と位置付け、さらなる日米協議により米軍基地の縮小を目指していくと高らかに宣言するか、あるいは、いろいろ研究・模索してみた結果、自民党が見つけた落とし所(当初案)が案外よく考えられたものだったと確認することができたのでこのテーマについては前政権を踏襲すると宣言するか、どちらかを選択して政権の価値判断を明確化すべきだと思う。
 前者を選べば「能力を欠く」と評価され、後者を選べば「理念を欠く」と評価されるだろう。しかしこの2つは全く意味が違う。能力不足なら外部から補うことも可能で今後の成長にも期待できるが、理念不在なら信頼回復は困難だ。

 鳩山政権への失望が広がっているのは明らかだが、その中身についてはまだ十分に吟味されていない。もしもこの政権に新しい政治を求めるのであれば、理念の確認と果敢な前進を常に求めつつ、各方面からの知的支援を惜しんではならないと思う。