「書いて考える」

 大江健三郎は昨年秋に刊行した『「話して考える」と「書いて考える」』(isbn:4087747271)において,インタビュー・対談・討論・座談会といった「口頭表現」が日本の出版界の大部分を占めていることと,小泉純一郎石原慎太郎田中真紀子らの人気を関連付けながら,「会話主義の蔓延」は「日本文化が滅びる」徴候だと指摘した上で,以下のように宣言している。

 日本の文化情況に,書くこと・書き言葉の論理性の優位を回復しなければなりません。会話主義による,内側向けの協調のムードを打ち壊さねばなりません。書かれた言葉による論争を,報道,出版の現場において再生させねばなりません。会議についても同じです。そして,なによりも,書くこと・書き言葉の論理性を回避しない読者,聴衆を育成しなければなりません。
 つまり,いま死に絶えようとしている日本の知識人の伝統を,土壇場でよみがえらせねばなりません。それは,書き手としても読み手としても,若い知識人を養成することです。そしてそのためには,敗戦後から60年代までの,さきにその名をあげた渡辺一夫丸山真男という大知識人の時代――かれらが達成したものより,達成しえなかったものが多いことは,70年代の大学批判があきらかにしましたが――を知っている,私らの年代の人間が働かねばならないと思います。
 つまり,若い世代からもうほとんど死滅したとみなされている――それもほぼ60年代を最後に姿を消したと信じられている――ことにおいてタスマニアオオカミにくらべられる私ら日本の知識人の生き残りに,やるべき仕事はある,と私は考えるのです。
 そしてその具体的な手がかりとして,私は日本の近代の見なおしが必要であり,かつ有効だといいたいのです。日本人が近代において行なった侵略戦争の,とくに新世代による再認識の努力を,それはふくみます。さらに近代(モダーン)とポストモダーンの全域における日本人の考えたこと・やったことについての,批判的な論争が再興されなければなりません。それは現在の政治的言説のあいまいさを検証する運動に,実質的につながって行くはずです。

 
 国会の憲法調査会は,今年4月にも最終報告をまとめるらしい。自民党民主党も,今年,憲法改正についての基本的な考え方を明らかにする予定だ。改憲論議はどんどん具体的になってきている。もう既に「なんとなく護憲」と言っているだけでは実質的な抵抗力を喚起することのできない情勢だ。
 1994年に読売新聞が改憲試案を発表したときは,まだ「無視」することが最善の策だったかもしれない。しかしこの10年の間に新しく制定された法律の数々を思い出せば戦慄とともに理解される通り,日本国憲法体制は既に大きく変容していて,そしてそのことを有権者は結果として「黙認」してきている。いま改憲論議を「無視」することは,直ちに「黙認」と見なされる危険を伴うのだということだけは,認識しておいたほうがいい。
 
 実際に改正案が上がってきたときには,少なくとも5つの反応がありうる。

  1. 改正しなければならない。
  2. 改正したほうがいい。
  3. 改正してもいい。
  4. 改正しないほうがいい。
  5. 改正してはならない。 

 但し,もともと日本国憲法には何が書いてあり何が書いていないのか,各条文がどのような意味をもち,実際にどのような機能を果たしてきたのか,そういうことを知らなければまともな判断はできない。一般の法律と違って,憲法改正の最終的な決定権が直接有権者に委ねられている以上,それなりの訓練を積んでおく必要があるだろう。
 そこで,日本国憲法の再読・再評価,問題点の検討に取り組みながら,改憲論を分析し,場合によっては反論,あるいは逆提案を考え,そしてそれを「書く」ことが,このダイアリーの目的となる。
 「話して考える」(談話思考)と「書いて考える」(著述思考)の対比でいえば,まずひとりで「書いて考える」ことを大切にするために始めようと思った。従って「(笑)」などのムード醸成記号は不要だろう。しかし言うまでもなく,対話の意義を否定するわけではない。コメントの書き込みがあれば,いつでも応答したいと思う。