逃避としての改憲論

 国連難民高等弁務官事務所UNHCR)から難民(マンデート難民)と認められる一方、日本政府には認定されずに支援を求めていたトルコ国籍のクルド人、アハメッド・カザンキランさん(49)と長男ラマザンさん(20)が18日、法務省入国管理局によって母国に強制送還された。日本にいたマンデート難民が本人の意思に反して強制送還されたのは初めて。UNHCRなどが抗議している。
 支援者によると、カザンキランさんは90年に来日し、いったん帰国して96年に再び日本に来た。「母国でクルド人自治を求める運動をしたため、戻ったら殺される」と主張。UNHCRは難民と認めたが、クルド人が日本で難民と認定された例はなく、法務省は3回の申請をすべて退けた。在留資格も得られず、退去強制令書が出ていた。
 17日にカザンキランさんらが仮放免の期間延長申請のため、東京入国管理局に出頭したところを収容され、18日午後の便で本国に送還された。
 マンデート難民はUNHCRが、難民条約上の難民にあたると判断した人。UNHCR駐日地域事務所のナタリー・カーセンティ首席法務官は「送還は難民条約に反する。遺憾だ」と話した。
 法務省入国管理局は「UNHCRとは難民の解釈や認定の目的も違う。手続き過程で虚偽の申請もあり、送還が相当と判断した」としている。 (asahi.com 1/18 22:42)

 難民の認定基準は必ずしも明確でなく,この事例でも,国連と日本政府(法務省−入管)の認定基準がどう違い,何が彼らを非・難民としたのかについて,十分な説明はない。この「あいまいさ」がまた,今後難民申請をしようとする人々に対し余計な不安を与えることに,おそらくは自覚的なのだろう,なかなかに陰険冷酷な国である。
 しかも,日本で少なくない支援者を得ていた彼らは,政府の判断を不服として裁判所にも訴えていた。なぜ最高裁の結論を待たずに急遽強制送還する必要があったのか,政府は説明すべきである。主権者として,「難民に冷たい国」との評価をすんなり受け入れるわけにはいかない。
 このように,国内ではまともな難民支援もできないのに,憲法を改正して「人道的支援のための国際的な共同活動に積極的に参加」するというのはどういうことだろうか。どうも順序が違うような気がしてならない。
 同様に,最近の改憲論には「新しい人権」の保障を盛り込もうとするものが多いけれども,NHKの一件をみるまでもなく,この国では最も核心的な人権というべき「表現の自由」でさえ,十分に保障されているとは言い難い。「古い人権」の保障もまともにできないで,「新しい人権」に着手するというのはどういうことだろうか。先にやるべきことがあるだろう。
 それでも今日,自民党は立党50周年の党大会で,憲法改正教育基本法改正を重要課題として掲げてみせた。小泉純一郎がこだわる郵政民営化を含めて,どれも大仕事には違いないが,的を外しているとしか言いようがない。これは,目の前の難問には何ら有効な手立てがないので,代わりに見栄えのいい大仕事に手を出すことにより何か仕事をしているような気になる/させる「ごまかし」の一種ではなかろうか。これを「逃避としての改憲論」と名付けよう。
 かつて「革命」さえ起きれば全てが変わり全てうまくいくと信じる宗教があった。いまもしかすると,それに代わるキーワードとして「改憲」が浮上しているのかもしれない。だとすれば,日本国憲法体制を擁護しようとする人々は,「資本主義」が「革命勢力」を切り崩していった歴史に学んで,憲法を変えても個々の生活がよくなるわけではないことを説きながら,逆に日本国憲法に基づく人権保障を徹底させることで難問を解いていく道筋を示さなければならない。どちらが「現実的」かの争いで,負けないことが肝要だ。最終的には,「生活保守主義」を味方につけたほうが勝つだろう。