目的効果基準(2)

 「津地鎮祭訴訟」で最高裁が示した「目的効果基準」は,

  • 目的が世俗的で,
  • 宗教に対するプラス/マイナスの効果がないとき,

国家と宗教の間に「関係」があってもそれは「合憲」だとするものである。
 確かに国家と宗教の間に一切の「関係」を認めない「徹底分離説」は現実的でない。例えば私立大学への助成を考えたとき「早稲田大学はいいが(キリスト教系の)上智大学はダメ」というのは,政策論として説得力がないだけでなく憲法論としても「宗教を理由とした差別的取扱」ということになりかねない。このように,「徹底分離」によって却って不合理な事態を招いてしまうということは確かにありうるだろう。しかしそのことが,政教分離原則を大幅に緩和していい理由になると考えるのは飛躍である。国家と宗教の「関係」は,「徹底分離によって却って不合理な事態を招いてしまう」場合にのみ許容されると考えるべきであり,それ以上に許容範囲を広げる理由はない。20条3項が「いかなる宗教的活動もしてはならない」という強い表現になっていることは軽視すべきでない。
 津市の地鎮祭についていえば,これを神式で執り行わなければ却って不合理な事態を招いてしまう理由はさしあたり見当たらず,これを合憲とする必要はないと考える。もし仮に「やっぱりこういうときには神主さんに来てもらわないといろいろ不安でしょう」などと考えるのならば,それこそ「宗教的」な目的ゆえ「目的効果基準」に照らしても違憲ということになるだろう。
 尚,5人の判事による「反対意見」は,「神社神道固有の祭式に則って行われた」この地鎮祭を「宗教上の儀式」と認定した上で,その効果についても,地方自治体が「神社神道を優遇しこれを援助する結果となる」として,違憲論を展開している。つまり同じ「目的効果基準」を採用したとしても,その「目的」や「効果」をどのようにとらえるかによって,結論が大きく変わってくる(「目盛りのない物差し」)。最高裁多数意見(10人の判事)は,最終的に「一般人の宗教的評価」「一般人に与える効果,影響」を持ち出して判定したが,多数決民主主義(「みんなで決める政治」)によって少数者が抑圧されないよう配慮するしくみとして「違憲審査制」があると考えるなら,裁判所が「一般人」の意識,「社会通念」に従って人権問題を判定するのは,そもそもルール違反ではないだろうか。人権保障を実際に必要とするのは常に民主主義によって代表されない少数者の側である。
 その意味では,第二審で名古屋高裁が展開した「宗教的少数者の人権論」はきわめて重要だ。学説もこの高裁判決を支持するものが多い。

 国又は地方公共団体の政治権力,威信及び財政を背景にして,特定の宗教が公的に宗教的活動を行うこと自体が,その特定の宗教に利益を供与し,これを国教的存在に近づけ,他の宗教及び反対する少数者を異端視し,疎外する間接的圧力になるのである。
 さらに,国又は地方公共団体のする特定の宗教的活動が大部分の人の宗教的意識に合致し,これに伴う公金の支出が少額であっても,それは許容される筋合のものではない。なぜならば,そのことによって残された少数の人は自己の納付した税金を自己の信じない,又は反対する宗教の維持発展のため使用されることになり,結局自己の信じない,又は反対する宗教のために税金を徴収されると同じ結果をもたらし,宗教的少数者の人権が無視されることになるからである。人権に関することがらを大部分の人の意識に合致するからといった,多数決で処理するような考え方は許されるはずがない。政教分離に対する軽微な侵害が,やがては思想・良心・信仰といった精神的自由に対する重大な侵害になることを怖れなければならない。