自衛隊の海外活動

 思いっきり素朴に言ってしまえば,多くの人が「平和に暮らしたい」と思っている。だから日本国憲法前文にある「平和のうちに生存する権利」を国家が保障してくれるというのなら,「なかなかいい国じゃないか」ということになるだろう。
 しかしそのために「陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない」とキッパリ武装放棄するとなると,賛否が分かれてくる。「いやいや,万一のときに備えて必要最小限の防衛力はないとまずいでしょう。こっちに戦う気がなくても,いきなり暴力をふるわれることはありうるのだから」という考え方が,おそらくは多数派で,だからこそ,憲法違反との指摘がいくら重ねられても,自衛隊の存在そのものは広く国民に受け入れられてきた。
 この「万一のときに備えて必要最小限の防衛力」を整備しておく方針を,この国では「専守防衛」といって安全保障政策の根幹に据えてきた。これは,「こちらから戦いを仕掛けるつもりは毛頭ありません」という宣言と,「だから何もしてくれるな。できることならこの防衛力を行使しないで済ませたいんだ」という願いを含んで,長らく支持されてきたものである。
 私はこのような「国民感情」を,「平和主義」と呼んでいいと思う。自衛隊の存在を肯定するか否定するかに関わらず,「平和に暮らしたい」という思いは強かった。キッパリと非武装主義を選択する潔さはなくても,なんとか穏便に,平和にやっていきたいんだという気持ちは日本の再軍備に歯止めをかけてきた。資金力から考えれば,アメリカはともかく英仏両国には負けないくらいに,世界中で戦争を起こすこともできたはずだが,これまで日本がそういう国にならなかったのは,もちろん外からの圧力もあっただろうが,やはり国民がそれを望まなかったことが大きいと思う。
 さて,この「平和に暮らしたい」あるいは「私の平和を脅かさないでほしい」という願いを,「一国平和主義」とするならば,その対極には,「遠くに困っている人がいるならば,いますぐ助けに行かなければならない」と考える「国際人道主義」がある。この立場を選択すると,場合によっては武力を行使してでも直面する問題を除去する必要に迫られ,「平和主義」と対立する。最近の9条改正論においては,この2つの考え方が整理されないまま並存していて,いったい何をしたいのか,そのためにどのような覚悟をするつもりなのかが,はっきりしない。
 防衛庁は昨日,自衛隊の海外活動を「本来任務」にするための自衛隊法改正案を国会に提出する方針を固めた。PKO法のケースだけでなく,いまのイラク派遣なども含めた「国際平和協力活動」を,「防衛出動」や「治安出動」と同じレベルの「本来任務」に格上げするという。これは,自衛隊が「一国平和主義」のための,「万一のとき」のための「必要最小限の防衛力」として存在してきた歴史から大きく一歩踏み出して,「国際人道主義」の考え方を,正式に取り込んでいくことを意味している。
 「遠くに困っている人がいるならば,いますぐ助けに行かなければならない」というのは確かにかっこいいかもしれない。21世紀の日本が,そういう「ピンチのときにやってくるヒーロー」として「国際社会において,名誉ある地位を占めたい」というのなら,それは立派な決断で,称えられることはあっても非難されることではないだろう。
 しかし,そんなに単純な話でないことくらい,アメリカを見ていればよくわかるはず。「平和に暮らしたい」という素朴な感情の先に,いったいどんな理想を描き,そのためにどんな方法を選択し,何を引き受け,何を拒んでいくのか。じっくり考え,とことん議論すべき事案である。