尊厳死

 自民、公明両党は9日、死期が近く回復の見込みがない患者に積極的な延命治療を施さない「尊厳死」の容認に向けた与党協議機関(会長、丹羽雄哉元厚相)を近く新設し、法整備やガイドラインづくりに着手する方針を固めた。尊厳死は現在法律上の規定がないが、患者の意思を尊重する必要がある、との判断に傾いた。法案化が可能な場合、議員立法で06年の通常国会に提出する考えだ。
 尊厳死は、難病などで回復の見込みがなくなった場合、患者が自らの意思で延命治療を拒否し、尊厳を持って死を迎えるとの考え方。薬物投与などで積極的に患者を死なせる「安楽死」とは区別される。国内でも書面による生前の意思表示(リビング・ウイル)を行う人が増加、日本尊厳死協会(北山六郎会長、約10万5000人)が書面による意思表示を有効とする法制度を求めている。
 尊厳死の容認に関し超党派議連が昨年6月に発足したが、意見集約が困難なため、与党主導に切り替えることにした。協議機関では延命治療中止の際のルールを作成。尊厳死の定義を明確にしたうえで、延命治療を行うかどうかは患者の意思を尊重することを規定。患者が尊厳死を望む場合、延命措置を行わなかった医師の法的責任を問わない案を検討している。
 厚生労働省が03年に実施した終末期医療に関する意識調査では、患者の意思を尊重する考え方に「賛成する」と答えた人は84%に上った。ただし「法律を制定すべきだ」は37%にとどまっている。
毎日新聞 1月10日付)

 「延命」治療に限らず,すべて「治療」の方法・方針を選択する権利は,原則として患者の側にある。これは,人権としての「自己決定権」を持ち出すまでもなく,契約主体として当然の権利である(気に入らない契約を強制されることがあってはならない)。
 しかし一方で,医師の倫理として,「助けられる患者を助けない」選択はなかなかに難しい。そこで法律を制定してルールを決めておこうという話になる。ここまでは理解しやすい。
 問題は,患者の決定能力だ。
 インフォームド・コンセントを前提として,十分な情報を得た患者が,確かな判断能力をもって治療の中止を決断し,それを必要な時点で明確に意思表示した場合には,その患者の選択を最大限尊重し,医師は治療を中断しなければならない。これが原則だろう。
 しかし「延命」治療の場合,必要な時点,つまり治療行為を中止する時点で,患者が意識喪失あるいは意識混濁状態に陥っていることが多い。このとき,患者の意思を「推定」して治療行為を中断することができるだろうか。
 例えば,文書で「リビング・ウィル」(生前発効遺言)が明示されている場合には,その内容に従って,治療を中断することが許されると考えられる。もちろん厳密に言えば「気が変わる」ということもあるので,絶対的な根拠にはならない。しかし法律で,「リビング・ウィル」に基づく「尊厳死」を認めることは,線の引き方としては悪くないと思う。「いざというときに気が変わってももう取り下げることはできないかもしれない」と覚悟した上で「リビング・ウィル」を書く責任が,選択権とともに患者の側に回ることになるが,医師に選択権と責任をすべて譲るよりは合理的だろう。
 では,明確な「リビング・ウィル」は示されていないが,日常会話の中で,尊厳死を希望する発言をしていたという場合,どう考えるべきか。
 この場合,患者の「本当の」意思を推定することは難しい。日常会話の中での発言がすべて「本音」を表すとは考えにくいし,また,発言したことを「証明」できるかどうかも怪しい。このようなときには家族の意思から本人の意思を推定することができるという見解もあるが,私は家族の意思と本人の意思を同一視することに反対だ。家族が本人にとって「よき理解者」であったり「最大の味方」であったりすることは,幻想や可能性としては十分にありうるけれども保証できるものではない。場合によっては,家族が「最大の敵」ということもあるだろう。例えば,本人の意思をより正確かつ詳細に把握しているのが,家族ではなく特定の友人だという事例は,一般的によくあることではないだろうか。そのような「現実」を踏まえずに,「家族」を特権化することには,断固反対しておきたい。
 さらに,患者が乳幼児の場合には,誰も本人の「意思」を確認することはできない。重度の障害者などの場合も同様に,「判断能力」をどうとらえるかについて考え方が分かれてくるだろう。このようなケースを法律でどう規定するのかについては注意が必要だ。
 また,治療を中断するといったときの「治療」とは何か,というテクニカルな問題もある。薬物投与や人工呼吸器の使用は中断してもいいとして,例えば水分・栄養の補給も中断していいのだろうか。「リビング・ウィル」にそこまで具体的な指示がない場合,判断は難しい。さらに,患者本人の希望がはっきりしていたとしても,水分・栄養の補給は「治療」ではなく「看護」だから中断できないという説もある。私は「治療」と「看護」をここで区別する必要はないように思うが,病状によって,「病死」ではなく「餓死」になってしまうようなケースにおいて,これを「尊厳死」と呼べるか,という問題は残るだろう。
 いずれにしても,医師と患者の「契約」に関わる問題は直接「憲法問題」ではないが,ここに法律が介在するとなれば,その法律は憲法13条に反するものであってはならない。どのような法案が上がってくるか,注目しておこう。

日本国憲法 13条
すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。