東京都国籍条項訴訟

 東京都が在日韓国人2世の職員(保健師)に対して,「国籍」を理由に管理職試験の受験を拒否した事件で,最高裁は都の判断が法の下の平等を定めた憲法14条に反するものではないとして,外国人の公務就任権に関する地方自治体の裁量権を幅広く認める,「合憲」判決を下した。
 判決は,公権力を行使する公務員については,国民主権の原理に基づき,原則として日本国籍を有するものが就任するものとみるべきであり,管理職に昇任すれば,いずれは公権力を行使する立場になることが前提とされるから,東京都が管理職の資格要件として「国籍」を定めたとしても,これは合理的な理由に基づく「区別」であって,憲法14条(法の下の平等)や労働基準法3条(国籍差別の禁止)に違反するものではないと説明している。
 大きな論点が2つある。1つは,国民主権の原理から,直ちに「国籍条項」の妥当性が導かれるかどうか。つまり,外国人の公務就任権を保障しようとすると「本当に」国民主権が脅かされるのだろうか,という点。もう1つは,「公権力を行使する公務員」については「国籍条項」による制約もやむを得ないという立場を選択したとして,それでは,管理職試験の受験資格を一様に剥奪することまでが許されるのかどうか,という点だ。
 2点目から考えたい。この裁判の控訴審で東京高裁が示した判断は,以下の通りだった。この「違憲」判決を,今回の最高裁判決が覆してしまったことになる。

 地方公務員の中でも,管理職は,地方公共団体の公権力を行使し,又は公の意思の形成に参画するなど地方公共団体の行う統治作用に関わる蓋然性の高い職であるから,地方公務員に採用された外国人が日本国籍を有する者と同様当然に管理職に任用される権利を保障されているとすることは,国民主権の原理に照らして問題があるといわざるを得ない。
 しかしながら,地方公務員の担当する職務は,地方自治全般にわたり広範多岐であり,中には,管理職であっても,専ら専門的・技術的な分野においてスタッフとしての職務に従事するにとどまるなど,公権力を行使することなく,また,公の意思の形成に参画する蓋然性が少なく,地方公共団体の行う統治作用に関わる程度の弱い管理職も存在するのである。
 課長級の管理職の中にも,外国籍の職員に昇任を許しても差支えないものも存在するというべきであるから,外国籍の職員から管理職選考の受験の機会を奪うことは,憲法に違反する違法な措置であるといわなければならない。

 最高裁においても,滝井繁男裁判官による反対意見は,以下の通りである。

 都のように,多数の者が多様な仕事をしている地方公共団体において,その管理職に就く者が,その職務の性質にかかわらず,すべて日本国籍を有しなければならないものとすることには,合理的根拠を見出すことはできない。
 従って,都が管理職選考において,日本国籍を有することを受験資格とした措置は,在留外国人である職員に対し国籍のみによって昇任のみちを閉ざしたものであり,憲法14条に由来し,国籍を理由として差別することを禁じた労働基準法3条の規定に反すると考える。

 さらに泉徳治裁判官も,「本件管理職選考の受験拒否は過度に広範な制限と言わざるを得ず,その合理性を否定せざるを得ない」として反対に回った(13:2)。
 そもそも外国人の人権享有主体性については,「権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き,わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべき」だとする最高裁判決がある。加えて定住外国人地方参政権については,「法律をもって,選挙権を付与する措置を講ずることは,憲法上禁止されているものではない」とした最高裁判決もある。
 これらの判例を踏まえて言えば,外国人の公務就任権,特にその中の幹部就任権についても,その職務内容(「性質」)によっては,十分に保障されるべきものと考えることができるし,また,少なくとも,憲法は(国民主権原理に照らしても)それを禁止していないということは言えるはずである。しかし今回の最高裁判決は,そのような指針を示すこともなく,丸ごと東京都の裁量権に委ねてしまった。外国人のように,民主主義の過程において自己の利益を実現する途が閉ざされているマイノリティを前にして,裁判所はもう少し積極的に,人権保障の実現に向けて尽力してもよかったのではないだろうか。
 次に1点目に戻って,国民主権原理と「国籍条項」の関係について考えておきたい。通説・判例は,外国人の人権のうち,特に,国政選挙の選挙権・被選挙権については,「主権者である国民の固有の権利」だから外国人には認められないとの考え方を採っている。地方参政権ついては「許容説」が広がりつつあるが,公務就任権については,既に見た通り,「公権力の行使」に関与することができるのは「国民」だけだとする考え方が一般的である。
 しかし憲法学者浦部法穂は,これに真っ向から反論する。

 公務員になるということは,憲法尊重擁護義務(99条)があるわけです。それを宣誓したうえで公務員になる。つまり日本国憲法の下で日本国憲法を守って公務に携わるという選択を本人がするのなら,それはそれでいい。外国人がそういう職務に就くようになると,スパイが紛れ込むのではないかとかいう議論がありますが,スパイというのは外国から紛れ込むことも多いけれども,実は自国民のスパイというのもかなりいる。国民であるかどうかということには関係のない話です。
 ですから,憲法忠誠という意思を明らかにして公務に就く者を妨げる理由はない。それへの違反は,違反に対する何らかの手当てを考えるということで足りるはずです。日本国民については,そういうしくみになっているわけで,それで不都合はない。外国人の場合にはそれでは不都合だという理由は,なさそうに思うのです。
 かりに外国人であっても,その人に内閣総理大臣をやってもらいたいと,国民の代表者である国会議員が選ぶのなら,それはそれでいいんじゃないですか。何の不都合もないはずです。それが民主主義でしょう。(『憲法学説に聞く』isbn:453551433X より)

 「公権力の行使」があろうがなかろうが,「公務員」がどこの国籍であるかはたいした問題ではないとするこの議論は一見ユニークだが,しかし論理的にはそんなに突飛なものではない。国民主権原理に基づいて,民主的な意思決定過程が具体的な制度の中で保障されていれば,外国人が公権力に関与するにしても,それは常に「多数派」である「国民」のコントロールの「下」にある。国民主権−民主主義の統治原理は,マイノリティの権利を保障したことくらいで脅かされるようなものではない。
 だとするならば,国籍を問わず,純粋に管理職としての能力を基準にして選抜したほうが,優秀な職員を確保することができる点で「日本国にとって」合理的である。もちろん公務員としての能力には,「日本語」や「日本の法制度」の熟知が含まれるだろうから,在留期間の短い外国人が合格する可能性は著しく低い。結果としては,圧倒的多数の管理職が「日本国籍を有する者」になることに変わりはないだろう。
 判決後,原告のチョン・ヒャンギュンさんは「日本に来て働くのは,税金を納めながら意見を言ってはならない『ロボット』になるということ」だと怒りを露にした。最高裁国民主権原理の伝統的な解釈に縛られて「冷たい」判決を下したが,主権者たる「国民」が門戸開放を決断すれば,この問題はあっけなく解消する。「民主的」に国籍条項を撤廃していく途を探ってみたい。