沖縄靖国訴訟

 今日の那覇地裁判決は,参拝の「公的性格」や「宗教性」を審査することなく,きわめて「簡単」に,首相の靖国参拝が原告の「信教の自由」を侵害したとはいえないと判断した。全面的な原告敗訴である(http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20050128/eve_____sei_____000.shtml)。
 確かに首相が靖国神社に参拝したからといって,「私」の信仰が具体的に阻止されたり妨害されたりするわけではない。また,「私」にまで靖国神社へ行けとの圧力が加わるわけでもない。そういうとらえかたをするなら,「私」の信教の自由は(まだ)侵害されていないということになるだろう。
 しかしこの論理では,信教の自由が具体的に侵害されるまでは,国の宗教的活動も一定程度許容されるかのようである。これでは,憲法20条3項が「いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めていることの意味があまりに小さくなるのではないだろうか。
 政教分離とは,信教の自由を保障するための,「防壁」のようなものである。靖国訴訟の本質的な意味は,その「防壁」の強度チェックだと考えればわかりやすい。いざというときにこの「防壁」は本当に私たちを守ってくれるだろうか,「平時」から検査・確認しておかなければ安心できない。靖国参拝のような,不安や疑念を惹起する出来事があったときには,この「防壁」に穴が開いていないか,素材が劣化して脆くなっていないか,裁判所に持ち込んで「審査」してもらおう,そしてこの「防壁」をきちんと守っていこう,という運動として,全国各地の靖国訴訟があるのではないだろうか。
 順序としては,信教の自由が具体的に侵害されてから「防壁」のチェックをしても遅い。従って,侵害行為がなかったことを理由に,政教分離をめぐる諸論点について判断を回避することはできないはずである。
 この「防壁」は十分な強度を保っていますよ(=合憲)とするか,「防壁」に腐食がみられるので緊急に修繕する必要がありますね(=違憲)とするか,その結論はどちらであるにせよ,裁判所には少なくとも「審査」をサボタージュしない姿勢を求めたい。