生命倫理と憲法

 国連は,クローン人間の技術を(医療目的も含めて)全面的に禁止するよう求める政治宣言を採択した(http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20050219/eve_____kok_____001.shtml)。日本は,医療目的のクローン胚研究を認める「部分禁止」を主張して反対に回った。「全面禁止」に積極的だったのは主にカトリック諸国だったという。
 ここには「人間」あるいは「生命」をめぐる「倫理」の対立がある。今回はカトリックという一宗教を基盤とする「倫理」が多数派を形成したことになるが,「倫理」の問題は多数決で解決できるほど単純ではない。
 クローン人間の技術そのものに詳しくない私としては,この「倫理」の問題に深入りすることは難しい。そこで敢えて憲法問題として2つの論点を提起しておきたい。

  • クローン研究を禁止することは「学問の自由」の侵害ではないのか。
  • 最新技術の利用を妨げることは「幸福追求権」の侵害ではないのか。

 

日本国憲法 23条
 学問の自由は,これを保障する。

 思想・良心,表現の自由が保障されている上,さらに学問の自由を特別に保障する意味がどこにあるのかといえば,学問の場,例えば国立大学等において,学外では一般に認められている諸自由が,学内権力によって奪われることがないように,具体的に言えば,大学の人事権や命令権によって研究者個人の自由が阻害されることのないように,細心の注意を払ったものと考えることができる。
 さらに歴史的には,「国家のための学問」という観念を解除する意味,特にドイツでは,「大学の自由」を保障することによって,科学を「宗教」の拘束から解放する意味が強調された。
 そうであるならば,カトリックの「倫理」に基づいて大学等におけるクローン研究が禁止されるのは「学問の自由」を侵害するものといえる。国家が法律で,ある特定の研究を禁止する場合には,このように憲法問題が発生することを踏まえなければならない。
 一方で,学問の自由を,人一般の「人権」としてではなく,大学教授等に与えられた「特権」と解する立場をとるならば,多数派の利益に反する研究の制約を一定程度まで正当化することができるかもしれない。確かに大学等の研究機関を「私有」している人はほとんど不在で,多くの場合が特権的な地位と環境を「与えられて」研究活動を行っている。そのような条件下で認められる「学問の自由」を,個人が生まれながらにして平等に享有する「人権」と考えることができるかは難しい。
 しかしその場合でも,憲法が「学問の自由」を保障している以上,法令によって簡単に制約できるものではなく,「特権」を享受する研究者に要請される高度の「倫理」に基づいて,例えば学会の「ガイドライン」等によって,自律的に統制されることが期待される。
 
 第2の論点については,例えば人工受精などの技術を用いて子どもを持つことを,「生命倫理」の名において否定する場合には,「子どもを持つ」という人間生活の根幹に関わる重大事とされていることについてその個人の「幸福追求」の権利を侵害することになる可能性がある点に注意しなければならない。同様に,避妊や中絶を「倫理」によって規制することも,(親の)「個人の尊重」に反する可能性がある。
 この延長戦上には,当然クローン技術を用いた「幸福追求」の可能性がみえてくる。法律でクローン技術の開発を禁止することは,ある特定の「倫理」に基づいて,国家がその可能性を妨害することになるが,果たしてそのような介入は許されるのだろうか。
 同時に,クローンといえども「ヒト」であるから,その「ヒト」を例えば臓器のみを目的として作製し,目的達成後に処分するような扱いが,それこそ人権保障という観点からみて許されるのかという問題も想定できる。
 これについては憲法学者の長谷部恭男がひとつの指針を打ち出している。すなわち,「脳の欠如したヒト・クローンを作製してその臓器を利用することは憲法でいう個人の尊重に反しない」。なぜこう言えるのか。長谷部は,憲法が尊重する「個人」について,このように説明している。

 近代立憲主義は,この世に比較不能で多様な価値観が並存する事実を認め,その上で,異なる価値を奉ずる人々が社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う枠組を作り上げようとするプロジェクトである。
 そこで想定されている「個人」とは,私的空間では自己の生について構想し,反省し,志を共にする人々とそれを生きるとともに,公共空間では,社会全体の利益について理性的な討議と決定のプロセスに参与しようとする存在である。つまり,憲法によって尊重される「個人」とは,そうした能力を持つ存在であり,そうした能力を持つ限りにおいて「自律的個人」として尊重される。
 こうした能力を備えているためには,まずは思考し,判断し,コミュニケートする能力が備わっている必要がある。そして,そのためには,少なくとも,「機能する脳」が必要である。したがって,憲法上尊重される個人が存在するか否かは,生物学的な意味でのヒトの生命が存在するか否かとは必ずしも一致しない。

 この説明によれば,脳の機能が不可逆的に停止した場合や,「自律的個人」にいたるまでの存在,例えば受精卵などは,憲法上の「個人」として尊重されることはない。クローンの場合も同様で,また逆に,遺伝子工学の発達によって,通常人と同じ程度の思考能力を備えた猫が出現すれば,少なくともその猫が近代立憲主義のプロジェクトに基本的に同意する限り,個人として尊重すべきことになる。
 この議論は幾分刺激的だが,「人間の尊厳」(生命倫理)と「個人の尊重」(人権)が完全に一致するものではないことを鮮やかに示すものとして参考になる。
 従って,自民党・船田試案が「生命倫理尊重の責務」を掲げていることについては,その言葉の美しさに惑わされることなく,「個人の尊重」との緊張関係に配慮した上で,慎重に内容を吟味しなければならない。