平和的生存権

 自民党は新憲法の起草において「前文」の全面的な書き換えを目指している。個人的には今の前文のゴツゴツした調子が好きだが,もっと読みやすくわかりやすい文章のほうがいいという意見には譲らなければならないのかもしれない。
 さて,問題は中身である。日本国憲法の前文が,戦争への「反省」を基盤とした新たな平和国家の樹立を宣言しているのに対し,日本の歴史を全体として肯定的に受け継ぐ「自尊」の精神を打ち出したいというのが自民党の考えている基本路線だ。
 確かに日本の「いいところ」を的確に抽出して,その長所をこれからも大事にしていこうと宣言することには何ら問題がないだろう。例えば私なら,日本国憲法前文において「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意」した日本国民は,戦後60年(一応)その決意を守り通したわけで,その歴史を肯定的に受け継ぐことには積極的な意味があると考える。
 自民党の議論では,「国際貢献」「象徴天皇制」「自己責任」「自然との共生」「地球環境の保全」などを前文に盛り込むべきだという意見が上がっているらしい。「中曽根試案」には,「独自の文化と固有の民族生活」「教育を重視する」「世界文化の創成に積極的に寄与する」などの表現がみられる。
 一方で,「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という現行憲法の表現は削除されることになりそうだ。これは9条の改正と絡んで重要な意味を持つ。つまり,「諸国民の公正と信義」を信頼することができないから9条を改正して自衛軍を明確に位置付けるのだ,と読めてしまう。周辺各国に対して「おまえらのせいだ」と言っているようなもの。これが「自尊」の精神とは情けない。
 もうひとつ,前文の改正に際しては,どうしても看過することのできない重要な論点がある。それは「平和的生存権」の扱いだ。

われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 この一文は,日本国憲法の「先進性」を代表している。例えば憲法学者樋口陽一は,この意味を次のように解説している。

 この「確認」がもつ意味は,二つの場面で問題となる。
 第一は,人権発展史の流れの中で,「恐怖から免かれる」権利=自由権,「欠乏から免かれる」権利=社会権とならべて「平和のうちに生存する権利」をあげ,先行して実定化された自由と生存への権利も,平和が確保されてこそはじめて享受されるものとなることを,明らかにしたということである。自由権が19世紀の立憲主義によって実定化され,社会権が20世紀に入って多かれ少なかれその跡を追ったとすれば,日本国憲法が平和的生存権の理念を掲げたことは,いわば21世紀的人権の先どりとしての法思想史上の意味を持つ。
 第二は,憲法9条の平和主義条項を,国家の政策選択のひとつとしてだけでなく,人権価値によって裏づけるということである。
 その際,憲法9条の解釈にあたって,前文で言及されている平和的生存権の観念が重要な指針とされるべきことは,ひろく承認されている。

 改憲論議の中で「新しい人権」として名指しされるのは,「環境権」「プライバシーの権利」「知る権利」などいくつかあるが,「平和的生存権」の保障条項を「加憲」しようという提案はなかなか聞こえてこない。日本国憲法が前文で掲げた「新しい人権」としての「平和的生存権」は,9条の改正とともに取り下げられてしまうのだろうか。
 平和主義の看板を下ろすわけではないが,そのための手法を変更するのだという調子で9条改正を説明し,「積極的平和主義」なる用語まで採用しようとしている自民党の「改憲」が,本当に平和主義の看板を下ろすものでないのかどうか,それを見極めるためのひとつの指標として,「平和的生存権」の取り扱いに注目しておくといいだろう。
 「そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるもの」だという「人類普遍の原理」に基づいて考えれば,国民の権利をもっとしっかり保障するように憲法を改正する議論ならわかるけれども,わざわざ権利保障を「後退」させるような議論に与する必要は全くない。国民ひとりひとりの「自尊」を護るためにも,人権を安易に手放してはならない。