環境権(2)

 護憲を看板とする社民党でさえ,環境権などの「新しい人権」を憲法に盛り込もうとする運動に対しては,一定の理解を示している。
http://www5.sdp.or.jp/central/topics/kenpou0310.html
 憲法論議全体の中で,この「新しい人権」論ほど広い支持を得ているものは他にない。しかし,そのわりに,というべきか,そのせいで,というべきか,その中身については,憲法論議全体の中で,これほど深まっていない部分もないだろう。
 環境権については,それを「人権制約原理」にさせないための論争が,直ちに提起されなければならない。
 そもそも日本国憲法の条文からいかにして環境権を引き出すかという従来の議論を踏まえれば,13条の幸福追求権を根拠とした「自由権的環境権」と,25条の生存権を根拠とした「社会権的環境権」を想定することができる。前者は「(よい)環境の享受を公権力によって妨げられない権利」,後者は「環境保全のための積極的な施策を公権力に対して要求する権利」と説明される。
 これらは,「新しい人権」とわざわざ言うほど「新しい」論理構造を持っているわけではない。「国家からの自由」と「国家による自由」という人権理念の2つの型を,「新しい社会問題」というべき「環境問題」にあてはめたときに,ほとんど論理必然的に導かれたものである。
 しかしこれまで,裁判所を含むこの国が,日本国憲法の積極的な解釈を通じて,これらの環境権を十分に保障してきたわけではない。むしろ,環境権の保障から逃げてきたと評価されても仕方のないような歴史がある。だからこそ,憲法にはっきりと環境権条項を加えるべきだという主張が出てくるのだ。
 それでは,憲法にどのようなかたちで環境権規定を書きこむのだろうか。
 まず,憲法に「新しい人権」を書き込む場合の,一般的な注意点として,それが「国家への命令」になっているかどうかは,必ず確認しなければならない。環境権を保障するために国家はさまざまな努力をしなければならないが,その「義務」を国家に課すことが環境権条項を憲法に書き込むことの直接的な意義である。自民党改憲論議が,全体として「国家の義務より国民の義務を」という方向で進んでいることは既に知られているが,環境権についても,「国家の義務」を軽くして「国民の義務」を重くするようでは,環境政策の抜本的な転換を迫る力が削がれてしまい,改憲の意義はほとんど失われることになる。
 次に,環境権が,他の人権,特に自由権と衝突する場合に,いかに調整するのかについては,十分に議論がなされる必要がある。自由の価値を最大限重視する立場からは,おそらく環境権の明示的導入によって経済的自由の一部が制約されることに,強い反発があるだろう。経済界が環境税の導入に反発しているのが,その最もわかりやすい例である。
 私は,国家に対して「地球環境への配慮」を義務付ける基本方針に賛成する立場を選択するため,環境対策のために経済的自由や財産権の一部が制約されることを,ある程度は認めざるを得ないと思っている。しかしそれが,個人の(断じて「法人の」ではない!)文化的生活を踏み躙るものであっては本末転倒だし,また,国家が個人のライフスタイルに深く介入する事態も許してはならない。国家はあくまでも「ライフスタイル中立の原則」を守りながら,つまり選択の自由を確保しながら,同時に環境問題を好転させようとする「細い道」を探ることが求められる。そうでなければ私たちは,歴史上何度も繰り返された全体主義の失敗をトレースして,結局,貴重な時間を無駄にすることになるのだ。
 さらに,環境権が精神的自由と衝突する場合には,より慎重になる必要がある。間違っても,地球環境問題の重みが,表現の自由を押しつぶすようなことがあってはならない(例えば「浪費のすすめ」や「反・環境運動」の言論を「有害」だとして排除するような動きが起きないとは言いきれない)。どんなに正しい目的も,それへの反論を封じる資格まではもたないのだということを,しつこく思い起こそう。何しろいま「環境」というキーワードは,最強の道徳的規範力を持つ。国際的にも大きなうねりとなっていて,地球規模での多数派形成が進んでいると言っていい。そんな中で少数意見を表明するには相当の勇気が必要になるが,その自由を保障するのが多数派の側の(それこそ)責務であることは忘れるべきでない。
 ここにもし,憲法上の「国民の責務」として「環境保全」が掲げられることになると,伝統的な自由にとって,問題はより深刻なものとなる。国家が「環境」カードを利用して恣意的に国民の自由を制約できるような事態になれば,憲法による人権保障はほとんど機能しなくなる。環境権条項が,「公共の福祉」に代わる人権制約原理として,国家権力によっていいように使われる道具となることは絶対に回避しなければならない。逆に国民が国家に対して切るカードとして環境権を位置付けること。その具体的な方法を提示することなく,簡単に「新しい人権」として環境権の導入を提唱するのは,無責任の誹りを免れない。