生徒の自由

 卒業式の季節,例によって「君が代」をめぐる攻防が注目されたが,国歌斉唱を拒否する自由がなぜ認められないのかについて,説得力のある議論はまだ聞こえてこない。
 学校という場においては,教師が生徒に何かを「やらせてみる」ということが,教育上必要となる場面に多々遭遇するだろう。しかしそれは,教師が教育者としての力量により生徒からの信頼を得,その指導に従って,生徒が自らすすんで「やってみる」ことによって初めて意義をもつものであり,強制的に(納得させることができないままとりあえず形式だけ整えて)やらせたところで,教育効果は著しく貧しいものにならざるを得ないということは,多くの「元・生徒」たちが経験を踏まえて言えることではないかと思う。
 第一,国歌斉唱が,学校教育において,どうしても欠かすことのできない重要事項だろうか。少なくとも,この問題単独で教師が「処分」されるような案件とは思えない。もしこの程度の問題で教師が「処分」されるのであれば,クラスにイジメがあったり,不登校・ひきこもりの生徒がいたりする場合はもちろん「処分」されなければならないし,食べ物の好き嫌いで給食を残す生徒がいるというだけでも,その担任教師は「処分」されなければならないのかもしれない。国歌が歌えないことによる影響よりも,偏食による健康被害や成長阻害がもたらす影響のほうが,その生徒の将来を考えると深刻ではないか。
 ただ,教師の「処分」の問題そのものよりも,学校の中で,生徒の人権がきちんと保障されているのか,それを保障するためのしくみができあがっているのか,という観点から考えることが重要である。
 学校はその独立性を確保するため,いろいろな意味で閉鎖的な空間となっている。そこでどんなことが行われているのか,外部の者にはわかりにくい。この不透明性が,内部での人権蹂躙を隠蔽してしまう可能性があることに注意しておく必要がある。
 生徒の自由を保障するためには,まずそれを尊重する教師の存在が不可欠である。道徳の授業でいくら「差別はいけない」とか「弱いものいじめはいけない」とか,「資料」を使って教えたとしても,その教室で教師が生徒の人権を尊重していなければ何も伝わらないだろう。人権教育にとって最も重要なことは,まさにいまそこで,生徒ひとりひとりの人権が保障されている,そのことを実感させることである。逆にいえば,自由を守るということ,人権を尊重するということとはこういうことなのだと教師が身をもって示すことである。
 「君が代」問題は,教育現場から人権保障の理念を追い出していく反動的な運動が,国歌斉唱の強制というグロテスクなかたちで顕れたものであり,これに反発することには十分すぎる意義がある。但し,教師の権限闘争が前面化すると説得力は希薄化するだろう。あくまでも生徒の自由を守ることが目的として掲げられなければならない。
 また,もしも「自分が尊重され,同時に他人を尊重すること」によってこの社会がぎりぎり成り立っているのだということを,初等・中等教育の場を使って子どもたちに伝えることができなくなれば,この社会の統治にかかるコストは飛躍的に上昇し,結局は,「権力」の側にとっても不都合が生じるはずである。