“愛国心”

教育基本法改正に関連して,“愛国心”という概念をめぐる様々な見解が飛び交っている。気になるのは,愛国教育への懸念に配慮して,「愛国心といったときの“国”とは,国家・政府という意味ではなく,郷土や文化・伝統のことである」というような説明がなされていることである。
今日の東京新聞でも,自民党萩生田光一が,「われわれも,『国』は統治機構を含まず,家族,地域,あるいは学校,職場など自分をとりまく環境というとらえ方で議論してきた」と述べている。
私は,家族関係やその他の社会関係全般にまで踏み込んで国家が“愛”を要求することは,国家・政府そのものへの“愛”を育もうとすること以上に危険なことではないかと思う。それこそ,民間のことは民間に任せてもらいたい。
もともとこの教育基本法改正については,その目的がよくわからないのだが,おそらくは,自分のことばかりで国のことを考えない国民が増えているという認識があって,それではこの国の秩序は維持されないので,教育の力によって,公共性なり愛国心なりを養おうという発想だと推測できる。その目的をとりあえず肯定したとして,ならば,「自分のこと」と「国のこと」がいかに密接に繋がっているかを説明し,国家の制度や法への関心を高めながら,“主権者”としての自覚を促していくことが教育に求められることだと思う。その範囲内であれば,これに反対する理由はほとんどない。
しかし,主権者が民主的に定めた国家の制度や法の範囲外に,勝手に“国”のイメージを作り上げて,それを愛せよと命じるのであれば,これには断固反対しなければならない。国が愛せよと命じることのできる“国”の中身は,どんなに広く解しても,主権者が民主的に定めた制度や法の範囲内に留まる。日本国公認の“日本”とは,最高議決機関たる国会が決定するものであって,それ以外の「私見」にすぎない“日本”を子どもに押しつけることは,それこそ「偏向教育」である。そんなものを教育基本法で奨励するわけにはいかない。
私は,日本の風土や文化,伝統や慣習,あるいは歴史などについての情報・知識を十分に与える必要があることに異論はない。しかし,それを愛するかどうかは個人の自由であり,また,国家にとっては,どうでもいいことだと思う。それよりも,現在の国家制度,国の基本秩序についての理解と共感を広め,「国のこと」に関心をもち,主体的に関与しようとする自覚ある主権者をいかに育てるかのほうが重要で,公教育のエネルギーは,そちらに振り向けられるべきだと思う。