「靖国社」

麻生太郎外務大臣が今日発表した靖国神社「国営化」私案は,靖国神社を非宗教法人化することによって政教分離原則に「抜け道」を作ることができると考えている点に大きな問題がある。
別の話題で注目を集めている「摂理」が宗教法人でないことからも明らかなように,全ての宗教団体が宗教法人であるわけではない。逆にいえば,宗教法人でないからといって宗教団体でないとは言えない。靖国神社が宗教法人であることをやめて例えば財団法人になったとしても,それが宗教団体でないとはいえず,政府が靖国神社と密接に関わってもいいという話にはならない。
靖国神社の問題は,法人格の操作によって技術的に解消できるようなものではない。それが実態として宗教であるか否かが厳格に審査されなければならない。そもそも日本国憲法政教分離を厳しく定めているのは,戦前の国家神道を否定するためだったことを想起する必要がある。その意味では,靖国神社「国営化」案ほど反憲法的な提案もない。
ところが,この提案は,「国営化」することによって靖国神社を「民主的にコントロール」することを可能にし,A級戦犯分祀を含めて靖国に関する諸問題を「民主主義」に委ねる点では,広汎な「良識派」によって支持される可能性をもつ。ここで,民主主義と立憲主義の緊張関係を意識しなければならない。
民主主義とは「みんなで決める」ということであり,現実的には「多数決で決める」ということである。これに対して「みんなで決めてしまってはいけないことがある」「自分のことは自分で決める」「ひとりひとりの個人を尊重しよう」と考えるのが人権という概念の出発点である。そして,人権を保障するために多数派の手を縛るのが立憲主義だ。
信教の自由は,核心的な人権だということができる。「みんなで決めてしまってはいけないこと」の最たるものであり,「ひとりひとりの個人が尊重されなければならない」。そのためには,政府が特定の宗教や信仰を「これが日本の伝統である」などといって特別扱いすることは禁じられなければならない。それが,政教分離の意義である。
麻生私案は,国営化された靖国の祭式を「非宗教的・伝統的なものに改める」としているが,この「伝統的なもの」という件には注意しなければならない。ある特定の祭式を「伝統的なもの」と政府が指定し,それに「お墨付き」を与えることは,例えそれが多数の支持によるものであったとしても,少数派の信仰を否定し,信教の自由を侵害する結果に繋がる。そういうことにほとんど配慮のない麻生私案に,まっとうな批判が向けられることを期待する。