核保有合憲説?

自民党政調会長がこの時期に核保有論を口にしたことで様々な反響をよんでいるが,政府・自民党憲法解釈の延長線上に核保有合憲説が控えていること自体は,そんなに驚くべきことでもない。
そもそも政府の憲法解釈によれば,日本国憲法9条が禁止しているのは「戦力」であり,「自衛のために必要な最小限度の実力」(「自衛力」)を保持することまで否定しているのではない。国際情勢の変化に伴い,自衛のためにはどうしても核兵器が必要だということになれば,核兵器を「自衛力」として保持することができると解するのが政府・自民党流の9条論である。
従って,「憲法でも核保有は禁止されていない」との中川発言は,論理的にはそんなに突飛なものではなく,むしろ,「これぞ自民党」というべきものである。彼が政調会長に選ばれた時点で,おそらく多くの人がこのような展開を予測したのではないか。安倍首相が思いのほか無難に政権運営を進めている中で,ある種の期待に応えたのは,やはり中川昭一だった……ただそれだけのことである。
それでも,さすがに核保有を合憲とするのはいかがなものかと感じる良心がこの国にも一定程度残存していることを確認した。ならば考えたい。核兵器はNOで,通常兵器ならYESなのか。
保有合憲説を導き出す論理的前提は,「戦力」と「自衛力」を区別して,「戦力」保持は違憲,「自衛力」保持なら合憲だとする9条2項の解釈にある。そもそもこの解釈が妥当なのかということを真面目に考えなければならない。まず「戦力」と「自衛力」はいったいどのように区別されるのか。あるいは,「戦力」にはあたらない「自衛力」というものを想定することが本当に可能なのか。「自衛力」とはいえ一定の攻撃能力を含むものである以上,それを「戦力」と呼ばないのは言葉遊びでしかないというべきである。
また,侵略目的なら「戦力」で,自衛目的なら「自衛力」だという説明がなされるかもしれないが,仮に侵略戦争自衛戦争を区別できるという立場を選択するとしても,兵器や軍隊それ自体を「侵略用」と「自衛用」に区別することは不可能である。同じ兵器や組織が侵略目的に使われることもあれば,自衛目的に使われることもあるのであって,兵器や組織自体は同じものである。物理的には,侵略用だけを禁止して自衛用のみ容認するなんてことは(同じものなのだから)不可能であり,もしも自衛用を認めるのであれば,それは同時に,侵略用も認めていることになる。さすがに9条が「なんでも保持していいよ」という規定だと読むのは誤りといっていいだろう。9条2項の戦力の不保持とは,その目的に関わらず,兵器や軍隊を保持することを一切禁止したものと解するのが妥当である。
さて問題はこの先である。9条2項の戦力不保持規定をこのように解釈するのなら,当然に自衛隊違憲となる。それでいいのか。やっぱり自衛隊は必要か。ならば,(少なくとも)9条2項を改正しなければならない。そのときに,ではどのような兵器・組織を認めようか。どの程度の軍備を合憲としようか。核兵器はYESかNOか。化学兵器生物兵器はどうするか。通常兵器はどこまでYESか。軍事費に上限はいらないか。軍事同盟は締結自由か。各論に入れば様々な意見があるだろう。
護憲か改憲かではない。何を認め,何を禁止するのか。そこのところを真面目に考えてみなければ,何も言えないはずである。そして注意しなければならないのは,いま認めようとしている軍事力なるものは,いかなる目的・理由であれ,つまりは人を殺してしまう力のことである。これをどう制御するのかについて,慎重な議論が必要なのはあたりまえであり,簡単に「なんでも保持していいよ」とは言えない。逆に一切保持しないと決断した現行憲法の立場には,それなりの合理性があることも考慮する必要がある。