教育基本法改正

ついに教育基本法が改正された。制定以来,戦後教育の基本を支えてきた法律の初めての改正。国会の外に,積極的な賛成派は決して多くなかったが,結局は関心が集まらず,反対意見も小さなまま,実にあっけなく,改正されてしまった。
このあっけなさには,2つの理由が考えられる。1つは,改正案の内容が,特に問題視する必要のない程度に穏健なものであると認識されたこと。もう1つは,仮に強硬な反対派が主張するように危険な内容を含む改正案であったとしても,問題があればまた改正すればいいし,明らかにおかしな方向へ教育が変わっていくのなら,いつでもそれを止め,ひっくり返すことができるという,民主主義への信頼(過信?)があったと推測される。
戦後教育によって育てられた多くの大人たちは,自分たちが戦前のような社会を再び作るなんてとんでもないことを,許すはずがないじゃないかと思っているから,自分たちが選んだ政府に対しても,そんなにめちゃくちゃなことをするはずがないとどこかで安心し,また万一,政府が暴走するようなことがあっても,そのときはさすがにサイレント・マジョリティが動き出し,政権を交代させるだろうと確信している。つまり,戦後教育によって育まれた主権者としての自信が,今回の法改正を容認させた側面があると考えられる。
しかし,変化は常に大胆かつ急激に訪れるものではない。こちらが気付かないほど穏やかに,ゆっくりじわじわと変化していくことだってたくさんある。今回の教育基本法改正による効果も,おそらく急激に教育現場を変貌させるものではなく,長い時間をかけてゆっくりじわじわと浸透していく類のものだと想像する。例えば20年後,サイレント・マジョリティの意識がいまと同じである保証はどこにもない。
反対派の主張は,おそらく最も敏感な人たちの反応であり,いまはそれが過敏に映るかもしれないが,後に歴史を振り返ったとき,その先見性に驚愕し,深く後悔することになりはしないかと,いまから不安に思う。
さて,改正された教育基本法の中身をみてみよう。
まず条文が11から18に増え,文言の全体量はほぼ倍増している。新たに加えられた項目は,「大学」「私立学校」「家庭教育」「幼児教育」「教育振興基本計画」等である。
前文では,旧法が「民主的で文化的な国家を建設」するとしていたのに対応して,「民主的で文化的な国家を更に発展させる」としている。旧法の目的が一定程度達成されたとの認識に立ち,さらなる発展のために新たな目標を掲げようとするのが,この新法の基本姿勢であると考えられる。
教育の目的については第1条で,「教育は,人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と定めた。旧法において「真理と正義を愛し,個人の価値を尊び,勤労と責任を重んじ,自主的精神に充ちた」と記述されていた部分を,「必要な資質」と省略しただけで,その前後はほとんど同じである。教育の目的自体を大きく変えるつもりはないということが,ここで確認できる。
特徴的なのは次の第2条で,教育の「目標」を5つ掲げて,基本方針を細かく書き込んだことである。第1条で省略した内容も,この2条の中に組み込まれている。

  1. 幅広い知識と教養を身に付け,真理を求める態度を養い,豊かな情操と道徳心を培うとともに,健やかな身体を養うこと。
  2. 個人の価値を尊重して,その能力を伸ばし,創造性を培い,自主及び自律の精神を養うとともに,職業及び生活との関連を重視し,勤労を重んずる態度を養うこと。
  3. 正義と責任,男女の平等,自他の敬愛と協力を重んずるとともに,公共の精神に基づき,主体的に社会の形成に参画し,その発展に寄与する態度を養うこと。
  4. 生命を尊び,自然を大切にし,環境の保全に寄与する態度を養うこと。
  5. 伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

問題となった愛国心表記を含めて,これを読んだだけで「けしからん」という人は少ないかもしれない。だからこそ,あっけなく改正が成ったのだろうが,気になるのは,全ての項目が「態度を養う」という表現になっていることだ。旧法に,「態度を養う」という表現は一度も出て来ないので,これは今回の改正案を書いた人たちの独特の発想を表している。
態度とはつまり外形であり,目に見える部分である。これは内心には踏み込まないという配慮を表すものであろうが,教育の目標が全て態度に着目していることはやや異常に映る。これは下手をすると,外形だけを整える,形式偏重の教育を導きかねない。例えば,差別意識を温存したまま差別用語の使用を禁止して,形式的には「差別のない教室」が実現される。教育する側にとって,これでは志が低いということにならないか。教育される側にとっても,「その程度」の教育だと軽んずることにならないだろうか。する側とされる側の結び付きを緩める効果をどう考えるか,本来なら時間をかけて議論すべきポイントだったのではなかったかと思う。
また当然に,態度を養うための強制的な教育方法が,内心の自由を侵害するものではないという理由を伴って正当化される可能性がある。教育を受ける子どもの人権をどうやって保障するかという観点から,対抗論理を構築しておかなければならないだろう。
重要なことは,この新しい教育基本法もまた,日本国憲法の精神に則って制定されたものであり(前文),その解釈・運用は,日本国憲法の人権保障理念に沿ったものでなければならないということである。自由と民主主義,人権保障と法の支配がこの国の基本理念だとするならば,その価値の継承を阻害するような教育方法が採用されないよう,教育行政及び教育現場を監視し続けなければならない。それが,この国を愛する者の責務ではないかと考える。