「いじめ」

「いじめ」の問題に注目が集まっているときなので,簡単に触れておく。
「いじめ」と括られる行為の中には,傷害,暴行,強姦,脅迫,強要,窃盗,恐喝といった「犯罪」が多く含まれる。これらの行為が「やってはいけないこと」だということについては争いがなく,刑法に明記されている。「道徳」や「愛情」といった曖昧かつ多様な観念よりも,刑法に関する知識を伝達するほうが「容易」だろうに,もしもそのことに失敗しているのだとすれば,教育行政関係者や教育者は,教育方法を見直すことから議論を出発させなければならない。
また,犯罪であるならば,それが未成年であれ,適正手続に基づいた法的制裁がなければならない。「いじめ」と名付けられることにより,「少年犯罪」と違った角度から論じられることが多いが,そこにどれほどの妥当性があるのか疑問だ。
一方,主にマスメディアを通じた社会的制裁については,慎重になる必要がある。これは,「いじめ」の場合に限らず,「少年犯罪」の場合,あるいは一般の「犯罪報道」についても言えることだが,メディアによって増幅される社会的制裁は,「いじめ」と紙一重,あるいは同質の暴力となりうる。自重すべきである。
「いじめ」の中には,刑法に抵触しない行為も様々含まれるだろう。場合によっては,刑法に抵触しない行為のみによって自殺にまで追い込まれることがあるかもしれない。善悪の基準が刑法だけでないことは言うまでもない。
「いじめ」とは,この国の人権保障が不十分であることの,学校における表れだと言うこともできる。こんなことを言うと,人権派が「自由」だ「人権」だといって子どもを甘やかすからルールの守れない子どもが増えるんだとの反論が聞こえてくる。しかし,人権を保障することが,子どもを甘やかすことや「何をしても許す」ことと同義だと思っているのなら,それは完全な誤解か,論理の飛躍である。人権保障の理念は,「すべての人を個人として尊重しなければならない」というきわめて厳しいルールを要求するものであり,人権を保障するために,その社会の構成員には「やってはいけないこと」がたくさんある。「いじめ」も,人権保障のために「やってはいけない」とされる禁止事項のひとつとして考えることができる。子どもを甘やかすこととは正反対の主張である。
そもそも私が,憲法や人権といった事柄に関心を持つようになったのは,「いじめ」と深い関係がある。約20年も昔のことであるが,私も「いじめ」の被害者だった。その私にとって,「すべて国民は,個人として尊重される」という憲法13条の文言は,輝いてみえた。「これだ!」と思った。本当に,この国がそういう国になってほしいと強く願った。また,そうでない現状に怒りも覚えた。だから,「いじめ」の問題については,この憲法の理念を,いかに教育現場,子どもの世界に浸透させていくかを基本に考えるべきだと思っている。
教育基本法は,日本国憲法の理念・精神を,教育行政にダウンロードすることを目的として制定されている。この教育基本法を,時代の変化に対応させるべく改正する必要があるとしても,日本国憲法の理念・精神を「基本」とする点については,変更すべきでない。特にいま,「いじめ」の問題に注目が集まる中で,学校空間における生徒・児童の人権保障水準を引き下げるような効果をもたらす法改正にならないよう,注意しなければならない。これもまた,大人からのメッセージとして,子どもたちに伝わることを忘れてはならない。

核保有合憲説?

自民党政調会長がこの時期に核保有論を口にしたことで様々な反響をよんでいるが,政府・自民党憲法解釈の延長線上に核保有合憲説が控えていること自体は,そんなに驚くべきことでもない。
そもそも政府の憲法解釈によれば,日本国憲法9条が禁止しているのは「戦力」であり,「自衛のために必要な最小限度の実力」(「自衛力」)を保持することまで否定しているのではない。国際情勢の変化に伴い,自衛のためにはどうしても核兵器が必要だということになれば,核兵器を「自衛力」として保持することができると解するのが政府・自民党流の9条論である。
従って,「憲法でも核保有は禁止されていない」との中川発言は,論理的にはそんなに突飛なものではなく,むしろ,「これぞ自民党」というべきものである。彼が政調会長に選ばれた時点で,おそらく多くの人がこのような展開を予測したのではないか。安倍首相が思いのほか無難に政権運営を進めている中で,ある種の期待に応えたのは,やはり中川昭一だった……ただそれだけのことである。
それでも,さすがに核保有を合憲とするのはいかがなものかと感じる良心がこの国にも一定程度残存していることを確認した。ならば考えたい。核兵器はNOで,通常兵器ならYESなのか。
保有合憲説を導き出す論理的前提は,「戦力」と「自衛力」を区別して,「戦力」保持は違憲,「自衛力」保持なら合憲だとする9条2項の解釈にある。そもそもこの解釈が妥当なのかということを真面目に考えなければならない。まず「戦力」と「自衛力」はいったいどのように区別されるのか。あるいは,「戦力」にはあたらない「自衛力」というものを想定することが本当に可能なのか。「自衛力」とはいえ一定の攻撃能力を含むものである以上,それを「戦力」と呼ばないのは言葉遊びでしかないというべきである。
また,侵略目的なら「戦力」で,自衛目的なら「自衛力」だという説明がなされるかもしれないが,仮に侵略戦争自衛戦争を区別できるという立場を選択するとしても,兵器や軍隊それ自体を「侵略用」と「自衛用」に区別することは不可能である。同じ兵器や組織が侵略目的に使われることもあれば,自衛目的に使われることもあるのであって,兵器や組織自体は同じものである。物理的には,侵略用だけを禁止して自衛用のみ容認するなんてことは(同じものなのだから)不可能であり,もしも自衛用を認めるのであれば,それは同時に,侵略用も認めていることになる。さすがに9条が「なんでも保持していいよ」という規定だと読むのは誤りといっていいだろう。9条2項の戦力の不保持とは,その目的に関わらず,兵器や軍隊を保持することを一切禁止したものと解するのが妥当である。
さて問題はこの先である。9条2項の戦力不保持規定をこのように解釈するのなら,当然に自衛隊違憲となる。それでいいのか。やっぱり自衛隊は必要か。ならば,(少なくとも)9条2項を改正しなければならない。そのときに,ではどのような兵器・組織を認めようか。どの程度の軍備を合憲としようか。核兵器はYESかNOか。化学兵器生物兵器はどうするか。通常兵器はどこまでYESか。軍事費に上限はいらないか。軍事同盟は締結自由か。各論に入れば様々な意見があるだろう。
護憲か改憲かではない。何を認め,何を禁止するのか。そこのところを真面目に考えてみなければ,何も言えないはずである。そして注意しなければならないのは,いま認めようとしている軍事力なるものは,いかなる目的・理由であれ,つまりは人を殺してしまう力のことである。これをどう制御するのかについて,慎重な議論が必要なのはあたりまえであり,簡単に「なんでも保持していいよ」とは言えない。逆に一切保持しないと決断した現行憲法の立場には,それなりの合理性があることも考慮する必要がある。

日の丸・君が代強制通達違憲判決(2)

「生徒に日本人としての自覚を養い,国を愛する心を育てるとともに,国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てるのは重要なことだ」
「しかし,懲戒処分をしてまで起立させ,斉唱させることは,行き過ぎた措置である」

日頃,市民感覚との乖離が問題になりがちな裁判所ではあるが,今回の判決は,東京都のやりかたに対する「それはちょっとやりすぎなんじゃないの?」「そこまでしなくても……」という大方の市民感覚に寄り添った結論だといえる。
中身を少しみてみよう。まず,日の丸・君が代の歴史的経緯に触れつつ,国旗国歌法が制定された現在でも,「宗教的・政治的に価値中立的なものと認められるには至っていない」と指摘した点が,この判決の最大の特徴だ。そして,価値中立的なものでないならば,それに反対する人がいるのは当然で,その人たちの「思想・良心の自由」も,「公共の福祉に反しない限り,憲法上,保護に値する権利というべきだ」とした。まさに,日の丸・君が代は「こころの問題」であるから,それへの接し方は人それぞれ「自由」だという立場である。
問題は,「公共の福祉に反しない限り」という保障の範囲だ。おそらく強制派の主張としては,個人の「思想・良心の自由」が認められるとしても,公務員である教職員が「職務上」行わなければならない指導は,個々人の思想に関わらず,都の教育方針に従って遂行してもらう必要があり,その限りにおいては,「思想・良心の自由」も制約される,ということになるだろう。そこで判決は,教育上(職務遂行上)の必要性と,教職員個人の思想・良心の自由の間で,以下のような判定を下した。

原告らが起立や斉唱を拒否しても,入学式,卒業式の式典進行を妨害することはないうえ,生徒らに拒否をあおる恐れがあるとも言えない。また,仮に音楽教員がピアノ伴奏を拒否したとしても代替手段がある。
そしてこれを拒否した場合に,異なる主義,主張を持つ者に対しある種の不快感を与えることがあるとしても,憲法は相反する主張を持つ者に対しても相互の理解を求めており,このような不快感により,原告らの基本的人権を制約することは相当とは思われない。

つまり,一部の教職員が起立,斉唱,ピアノ伴奏などを拒否したとしても,生徒指導の面で特別な困難が生じるわけでもなく,実害があるとすれば,異なる立場の人たちの「不快感」くらいのものだろう,という認識を前提として,その「不快感」程度のことで制約が許されるほど思想・良心の自由は軽くない,という立場から判決を下した。
これは,基本的人権を実質的に保障する裁判所の役割をきわめて深く自覚した判決だったと思うが,しかし,控訴審で逆転される可能性は小さくない。
まず,国旗国歌法の制定によって,日の丸・君が代が公式に採用された以上,これらの価値中立性を疑う立場が必ずしも一般的であるとは言えない。また,教職員の拒否によって生じる教育現場の混乱を重くみれば,「公共の福祉に反する」という理由で,彼らの自由は制約されうる。さらに,「そんなに君が代を歌うのがイヤならば,公立学校の教師なんて辞めてしまえばいいじゃないか」という考え方も一方にあるだろうから,全く別の論理で合憲判断を導くことも可能だろう。
もちろん私は今回の地裁判決を支持するが,まだまだ,まったく,安心はできない。

日の丸・君が代強制通達違憲判決

 卒業式や入学式などで、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教委の通達は違憲違法だとして、都立学校の教職員ら401人が義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は21日、原告全面勝訴の判決を言い渡した。難波孝一裁判長は「通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、教育基本法にも違反する」と指摘。教職員らに従う義務がないことを確認したうえ、通達違反を理由にした処分の禁止や1人当たり3万円の賠償も都と都教委に命じた。都側は控訴する方針。
 判決は、国旗国歌の生徒への指導が有意義であることを認めつつ、懲戒処分などを背景に教職員に強制するのは「行き過ぎた措置」と明確に断じ、教育現場での日の丸、君が代を巡る訴訟で初めて違憲判断を示した。処分の「事前差し止め」を認めた判決は異例。全国各地の同種訴訟に大きな影響を与えそうだ。
 争われたのは、都教委が03年10月23日に都立の高校や盲・ろう・養護学校長あてに出した「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」。都教委は通達に基づき、教職員に式典での起立などを命じる職務命令を出すよう校長に指示した。
 判決はまず、日の丸、君が代について「第二次大戦までの間、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として用いられ、現在も国民の間で宗教的、政治的に価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と指摘。「掲揚や斉唱に反対する教職員の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」と位置づけた。
 通達については(1)斉唱などの具体的方法を詳細に指示し、校長に裁量を許していない(2)校長が出した職務命令違反を理由に、多くの教職員が懲戒処分などを受けた――などと認定した。
 そのうえで「通達や都教委の指導、校長の職務命令は、教職員に一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するに等しい」として、教育基本法10条1項で定めた「不当な支配」に当たり違法と判断。「公共の福祉の観点から許される制約の範囲を超えている」として、憲法19条の思想・良心の自由にも違反すると結論付けた。
 さらに、通達に違反したことを理由にした懲戒処分は「裁量権の乱用に当たる」として今後の処分を禁止。「教職員は、従う義務がないのに思想・良心に反して職務命令に従わされ、精神的苦痛を受けた」として、退職者も含めて慰謝料を認めた。【高倉友彰】
 ▽原告団弁護団の声明 思想・良心の自由の重要性を正面からうたいあげた判決で、わが国の憲法訴訟上、画期的だ。教育への不当・不要な介入を厳に戒めており、教育基本法改悪の流れにも強く歯止めをかける内容だ。
 ▽都教委の中村正彦教育長の話 主張が認められなかったことは、大変遺憾なこと。判決内容を詳細に確認して、今後の対応を検討したい。(毎日新聞

 教職員側の完全勝訴。国旗国歌法が制定されてもなお,日の丸・君が代について「価値中立的なものと認められるまでには至っていない」と評価した点で画期的だが,おそらく「偏向判決」等々の批判に晒されることになるだろう。当然,都は控訴するだろうから,高裁で逆転される可能性もある。
 また,教育基本法改正を最優先課題と位置付ける安倍晋三には,この判決が「異常」に見えるだろう。教育改革キャンペーンに逆利用されれば,文字通りの「反動」が大きくなるかもしれない。
 ところで,小泉首相は早速,「法律以前の問題じゃないでしょうかね。人間として、国旗や国歌に敬意を表すというのは」と述べている。「こころの問題」だからという理由で靖国神社に参拝するもしないも自由だと主張し続けた人物としては,「こころの問題」だから国旗国歌に敬意を表するも表さないも自由だと言わなければ論理は一貫しない。しかしここでは,「人間として当然」だといって,選択の自由を事実上奪おうとしている。
 このように,ある特定の思想・理念についてのみ「こころの問題」として(法律から切り離して)擁護し,それ以外を「人間じゃない」と排除することは,「人権」の概念を根底から否定するようなものである。そういう「異常」な「偏向政治家」に権力を与えることの危険性を再認識しなければならない。

ビラ配布事件

マンションのドアポストに共産党のビラを配布していた住職が逮捕された事件で,東京地裁は昨日,無罪判決を言い渡した。「言論の自由が守られた」と評価する声も聞こえるが,そんなに単純な話でもない。

まず,マンションの廊下など共用部分は公共空間ではなく「住居」であり,誰の立ち入りを許すかを決める権限はマンション側にある。従って,立入禁止が明示されている場合に,それを破って立ち入ったときには,住居侵入罪が成立する。
このマンションの場合は,部外者の立入禁止を管理組合理事会で決定していたが,その表示は,「チラシ・パンフレット等広告の投函は固く禁じます」というもので,商業目的の広告配布だけを禁止するように読める文面であり,また,表示そのものが目立たず,一切の立ち入りを禁止するには意思表示が弱かったと判断された。これが,被告の住職を救ったといえよう。

正直いって,この判決はかなりきわどい判断によるもので,「ギリギリセーフ」の無罪である。まして,言論の自由を保障する憲法21条を根拠にして,ビラ配布の自由を認めたものではない。

そのうえ,マンションへの立ち入りが,どの程度まで許容されるかは,「立ち入りの目的・態様などに照らし,法秩序全体からみて,社会通念上容認されない行為と言えるかどうかによって判断するほかない」との基準を示した。
これは案外厄介な基準で,例えば「政党のビラならいいが,風俗産業のチラシはダメ」というような「内容審査」に繋がる可能性がある。言論の自由を保障しようとするとき,その言論内容によって「○」と「×」が分けられるような事態は避けなければならない。いかなる内容の言論も平等に保障されてこその「言論の自由」である。「風俗産業のチラシ」だとわかりにくいかもしれないが,例えば「宗教団体のチラシ」は?「カルト教団の広報誌」は?「新左翼団体の新聞」は?と考えていくと,「内容審査」の危険性がみえてくる。論理的には,「自民党のビラならいいが,共産党はダメ」ということになりかねない仕掛けがここにある。

とはいえ,私は,言論の自由を保障するためにマンションへの無許可侵入を認めよと主張する気は全くない。むしろ,個人の尊重という観点から,私的領域の保護を重視すべきだと考える。ビラの配布にとどまらず,例えば警察の巡回や監視も対象に,個人生活への干渉や接触を形式的に排除する権利がもっと大切にされていいのではないかと思う。
一方で,公共空間における言論の自由は,徹底的に保障されなければならない。私的領域と公共空間では,優先される権利が逆転するものと考えるべきではないだろうか。

「靖国社」

麻生太郎外務大臣が今日発表した靖国神社「国営化」私案は,靖国神社を非宗教法人化することによって政教分離原則に「抜け道」を作ることができると考えている点に大きな問題がある。
別の話題で注目を集めている「摂理」が宗教法人でないことからも明らかなように,全ての宗教団体が宗教法人であるわけではない。逆にいえば,宗教法人でないからといって宗教団体でないとは言えない。靖国神社が宗教法人であることをやめて例えば財団法人になったとしても,それが宗教団体でないとはいえず,政府が靖国神社と密接に関わってもいいという話にはならない。
靖国神社の問題は,法人格の操作によって技術的に解消できるようなものではない。それが実態として宗教であるか否かが厳格に審査されなければならない。そもそも日本国憲法政教分離を厳しく定めているのは,戦前の国家神道を否定するためだったことを想起する必要がある。その意味では,靖国神社「国営化」案ほど反憲法的な提案もない。
ところが,この提案は,「国営化」することによって靖国神社を「民主的にコントロール」することを可能にし,A級戦犯分祀を含めて靖国に関する諸問題を「民主主義」に委ねる点では,広汎な「良識派」によって支持される可能性をもつ。ここで,民主主義と立憲主義の緊張関係を意識しなければならない。
民主主義とは「みんなで決める」ということであり,現実的には「多数決で決める」ということである。これに対して「みんなで決めてしまってはいけないことがある」「自分のことは自分で決める」「ひとりひとりの個人を尊重しよう」と考えるのが人権という概念の出発点である。そして,人権を保障するために多数派の手を縛るのが立憲主義だ。
信教の自由は,核心的な人権だということができる。「みんなで決めてしまってはいけないこと」の最たるものであり,「ひとりひとりの個人が尊重されなければならない」。そのためには,政府が特定の宗教や信仰を「これが日本の伝統である」などといって特別扱いすることは禁じられなければならない。それが,政教分離の意義である。
麻生私案は,国営化された靖国の祭式を「非宗教的・伝統的なものに改める」としているが,この「伝統的なもの」という件には注意しなければならない。ある特定の祭式を「伝統的なもの」と政府が指定し,それに「お墨付き」を与えることは,例えそれが多数の支持によるものであったとしても,少数派の信仰を否定し,信教の自由を侵害する結果に繋がる。そういうことにほとんど配慮のない麻生私案に,まっとうな批判が向けられることを期待する。

「再チャレンジ」(2)

安倍晋三は今日,経団連の御手洗会長と会談し,「再チャレンジ」政策への協力を要請した。具体的には,中途採用枠の拡大や産後女性の再雇用等を要請したらしい。一度「外れた」人が「再チャレンジ」できるよう「席を用意してほしい」ということだろう。
これに対し,御手洗会長は,このように回答した。「仕事の“成果”に軸足を置いた職務給に移行する必要がある。そうすることで日本の労働界に流動性が生まれて,チャンスも増える。フリーターの職業選択範囲も広がるのではないか。」
つまり,「誰かを座らせるためには,誰かに立ってもらうしかない」ということだ。椅子の数は増えない。みんなが座れるわけではない。座れる人と座れない人がいる。熾烈な競争だ。経団連としては,座れない人に同情する気は全くない上,座っている人にもラクをさせる気はない。単に,労働コストのパフォーマンスを上げたいだけだ。より高い水準の労働力を自ら進んで提供する労働者に,椅子は与えられるだろう。
結果,安倍晋三の「再チャレンジ」政策は,成果主義人事の拡大・浸透を促し,「できる人」と「できない人」の格差を広げていくことになる。もちろん,ここでいう「できる」とは,使用者によって「できる」と評価される,という意味であり,実際に何が「できる」のかは明瞭でない。労働者は「できる」との評価を得るために,〈生〉の全体を使用者に差し出すことになるだろう。労働者の生活は全面的に所有され,徹底的に搾取される。それは全て「椅子に座りつづけるため」だったはずだが,それでもなお安定が保証されるわけではない。そのような「流動化」を望むのは誰か。それは本当に多数派か。
安倍晋三の「再チャレンジ」政策を,小泉構造改革によって拡大した格差を「是正」するものだと誤解している人が多いのは,マスコミの「誤報」によるところが大きいとはいえ,困ったことである。今日の安倍−御手洗会談で確認された安倍政権の方向性が望ましいものかどうか,ちょっと落ち着いて考えたほうがいい。