参院選2007

与党惨敗・民主大勝。とりあえず,戦後史上最も強硬な右派政権だった安倍内閣の暴走にストップをかけたことの意義は大きい。有権者にその自覚があったかどうかは別にして,これで自民党主導の憲法改正は一旦遠のいた。しかし,民主党圧勝の陰で,共産党社民党はまたしても議席を減らした。護憲派にとって,安心できる選挙結果ではない。
共産党は,ついに東京の議席を失った。今後,共産党単独で選挙区の議席を奪還する可能性はきわめて低い。党勢縮小に歯止めをかけるためには,新しい挑戦をしなければならない。
今回の得票数から単純計算すると,東京と大阪に限っては,共産党社民党の統一候補を擁立すれば当選する可能性が十分に高い。「護憲票」を集めれば,1議席分になる計算だ。もしも共産党社民党が本気で憲法改正を阻止しようと考えるなら,可能性の見込める選挙区では,護憲派統一候補の擁立を真剣に検討すべきだと思う。
また,社民党民主党との協力関係を維持しながら,民主党への影響力を行使することによって憲法改正への動きを阻止しようと考えているのだろうが,今後,民主党が党勢を拡大し続け,社民党の協力を得なくても国会の過半数を制するようになれば,社民党の主張に耳を貸す必要はなくなる。そのとき社民党は,いかにして憲法を護るのだろうか。護憲の党として責任を負うならば,民主党への過度な期待は慎んだほうがいい。
共産党社民党も,保守二大政党に対抗する第3極の創出に向けて,将来展望を積極的に開いていくのでなければ,この劣勢を覆すことはできないだろう。
社共の組織を護って9条が滅ぶような結末は,なんとしても避けなければならない。

憲法選挙?

国民投票法が成立し,自民党は新憲法草案を掲げて参院選に挑むという。これに対し,民主党は,年金・医療・介護・地域間格差・雇用の方がはるかに切実な問題だとして,憲法問題については「テレビなどで聞かれれば答える」程度にとどめるという。思い出すのは「郵政選挙」。あのとき,郵政民営化に並々ならぬ熱意を傾けた小泉に対し,やはり民主党は,「郵政だけが問題じゃない」といって正面衝突を避けた。避ければ争点が萎むかといえば,そうでないことはあの選挙が証明している。今回も民主党は,安倍の改憲に対する並々ならぬ熱意が日増しに膨れ上がっていくのを,止めることができないままに投票日を迎えることになりはしないか。「熱い」ほうに支持が流れる可能性が高い。逃げていては,水も挿せない。
参議院議員の任期は6年。今回の選挙で選ばれる議員が,憲法改正の発議に関わる可能性はきわめて高い。だとすれば,各候補者が,日本国憲法をどう評価しているのかはっきりさせた上で信を問うのが筋であろう。しかも国民投票法は,個別発議を前提にしている。「改憲か護憲か」という大雑把な議論ではなく,「○○を改めなければならない」「○○を護らなければならない」と,具体的かつ現実的な争点を作ってわかりやすく示すことが,安倍「改憲ムード選挙」に対抗するための有効な手段ではないかと思う。

国民投票法案 衆院通過

衆議院を通過した国民投票法案には,問題点が2つある。前にも書いたが,くりかえす。

1.最低投票率規定がない。
最低投票率の規定を設けて,それに満たなかった場合は投票全体を無効とし,改憲原案を廃案とするような手続を定めておいたほうがいい。国民の広く・確かな支持がないとき,権力側の発案で憲法を改正することには慎重でなければならないと考えるのが,立憲主義的だと思う。

2.CMを制限している。
CM制限だけで「金の力」を排除できると考えるのはあまりに楽観的であり,この制約にはプラスの意義が見出しにくい。一方,投票直前のCM禁止期間中,さまざまなメディアが「CMとみなされないように配慮する」ことが予想され,必要な情報が供給されない状況を生み出す可能性が高い。国民が,少ない情報をもとにして判断しなければならなくなる事態は,避けなければならない。CMを含め,一切の規制を外して,改憲案に関する十分な情報が容易く摂取できるように整備すべきだ。

解釈改憲

安倍首相が,集団的自衛権の行使について研究するための新しい有識者会議を設置するらしいが,そのメンバーが,柳井俊二北岡伸一岡崎久彦……と実に偏っていて,力が抜けた。これはおそらくきわめて具体的な「行使のガイドライン」を策定するための会議で,主に法技術的な問題を論議する場となるのだろうが,はたして,理念対立の段階をこうもあっさり乗り越えて(乗り越えさせて)しまっていいのだろうか。私たちは,まだ,各論に入る手前で片付けなければならない問題を,いっぱい抱えたままなのではなかったか。解釈改憲は,憲法典の改正に比べるとずいぶんハードルが低いので,政府の動きが加速化することに危機感を抱く。
世界平和への極めて困難な道のりにおいて,日本国憲法9条がもつ世界史的な意味を考えることは,何度くりかえしても足りることがないほどに重要だ。現実の国際社会において,戦争をなくすことなんてできるはずがないと考えるからこそ,最も強い抑止力として「9条」は重い意味をもつ。この重しを取り除いてしまえば,戦争を抑止・統制することがいま以上に難しくなるのは明らかだ。そのことに誰がどのように責任を負うのだろうか。
敵は戦争だ。甘くみないほうがいい。

『産む機械』

厚生労働大臣の発言が,大いに叩かれている。
「女性は産む機械」という発言が,「女性は黙って産んでりゃいいんだ」という意味で為されたものであるならば,確かに「問題発言」であり,内閣不信任決議案まで視野に入れて,徹底的に叩くべきだと思う。
しかしこれが,「機械の数が少ないのなら,1台あたりの生産量を増やすことを考えなければならない」という“喩え話”であるならば,“喩え話”としてセンスがいいか悪いかの評価はあってもいいけれど,この発言を理由に辞任要求までするのは明らかに過剰反応だろうと思う。
結局,「機械」という言葉を用いたことが「不適切」だったとして,発言者本人が謝罪しているが,このような「言葉狩り」にはあまり利益がない。むしろ,相手の(これだけ話題になるのだからそれなりに巧みな)“喩え話”に乗っかって,そもそも生産量を維持・拡大する必要があるのか,生産性向上のための具体的な方策は何か,生産力のない(あるいは小さい)「機械」をどう扱うか,等々の実質的な議論へと繋いでいくべきではなかろうか。
怒りは貴重な変革エネルギーだが,きちんと照準を合わせて放出しないと,単なる「ガス抜き」で終わってしまう。そういう無駄をできるだけ省いて,世論を問題の核心へと誘導できるかどうかは,野党のリーダーシップに依るところが大きい。批判する側の「本気」が見えなければ,政治に緊張感は生まれない。

議員特権批判?

 建て替え中の衆院赤坂議員宿舎(東京都港区)の完成を春に控え、若手議員を中心に入居を見送る動きが広がっている。国会に近い都心の一等地で、民間の5分の1と言われる低家賃が「議員特権」批判を浴びているためだ。民間マンションを借りるのを検討したり、あえて古い別の議員宿舎に移る議員もおり、衆院議員480人のうち300人が入居可能な同宿舎が定員割れになる可能性も出てきた。
 赤坂宿舎は地上28階・地下2階建て、全室3LDK(約82平方メートル)の高層マンション。民間の相場で月45万円はすると言われる家賃が月約9万2000円に設定され、テレビのワイドショーなどで批判を浴びている。(毎日新聞

新しい議員宿舎の家賃が安すぎると(どういうわけだか)批判され,自民党は家賃の値上げを検討しているという。家賃が相場程度に高ければ,それでいいのかと問いたい。
国会議員にしっかり働いてもらうため,国会議事堂から遠くない場所に宿舎を用意することは,あっていい。特に,地元との二重生活を成り立たせるための潤沢な資金がなければ議員になれないというような「偏り」がないほうがいいという観点からも,それを安価(あるいは無料)で提供することに,意義がある。
逆に,高い家賃をとって議員宿舎に住まわせることに,どれほどの意義があるだろうか。議員歳費のうちに家賃の占める割合が高くなれば,議員活動が不活性化するか,あるいは,歳費以外の経路で資金を集めることに躍起になるばかりで,有権者にとってほとんど利はないと予測する。
むしろ在任中の生活をしっかり保障して,国会議員としての(本来の)仕事に専念してもらうことを促すべきではないだろうか。お金のことばかり気になって,立法活動や国会審議に集中できないのでは困る。
もちろん,宿舎の建設そのものに無駄使いがなかったか,という観点からの検討は別途必要だ。しかし,それと家賃の高い低いは関係ない。
今回の批判が盛り上がる背景に,国会議員に対する不信があるのは間違いない。大した仕事もしないくせに特権ばかり享受しやがって,という発想だろう。
国会議員には,高い家賃を払うことや,宿舎への入居を遠慮することではなく,有権者から信頼され尊重されるような仕事ぶりをみせることによって,批判への回答としてほしい。

教育基本法改正

ついに教育基本法が改正された。制定以来,戦後教育の基本を支えてきた法律の初めての改正。国会の外に,積極的な賛成派は決して多くなかったが,結局は関心が集まらず,反対意見も小さなまま,実にあっけなく,改正されてしまった。
このあっけなさには,2つの理由が考えられる。1つは,改正案の内容が,特に問題視する必要のない程度に穏健なものであると認識されたこと。もう1つは,仮に強硬な反対派が主張するように危険な内容を含む改正案であったとしても,問題があればまた改正すればいいし,明らかにおかしな方向へ教育が変わっていくのなら,いつでもそれを止め,ひっくり返すことができるという,民主主義への信頼(過信?)があったと推測される。
戦後教育によって育てられた多くの大人たちは,自分たちが戦前のような社会を再び作るなんてとんでもないことを,許すはずがないじゃないかと思っているから,自分たちが選んだ政府に対しても,そんなにめちゃくちゃなことをするはずがないとどこかで安心し,また万一,政府が暴走するようなことがあっても,そのときはさすがにサイレント・マジョリティが動き出し,政権を交代させるだろうと確信している。つまり,戦後教育によって育まれた主権者としての自信が,今回の法改正を容認させた側面があると考えられる。
しかし,変化は常に大胆かつ急激に訪れるものではない。こちらが気付かないほど穏やかに,ゆっくりじわじわと変化していくことだってたくさんある。今回の教育基本法改正による効果も,おそらく急激に教育現場を変貌させるものではなく,長い時間をかけてゆっくりじわじわと浸透していく類のものだと想像する。例えば20年後,サイレント・マジョリティの意識がいまと同じである保証はどこにもない。
反対派の主張は,おそらく最も敏感な人たちの反応であり,いまはそれが過敏に映るかもしれないが,後に歴史を振り返ったとき,その先見性に驚愕し,深く後悔することになりはしないかと,いまから不安に思う。
さて,改正された教育基本法の中身をみてみよう。
まず条文が11から18に増え,文言の全体量はほぼ倍増している。新たに加えられた項目は,「大学」「私立学校」「家庭教育」「幼児教育」「教育振興基本計画」等である。
前文では,旧法が「民主的で文化的な国家を建設」するとしていたのに対応して,「民主的で文化的な国家を更に発展させる」としている。旧法の目的が一定程度達成されたとの認識に立ち,さらなる発展のために新たな目標を掲げようとするのが,この新法の基本姿勢であると考えられる。
教育の目的については第1条で,「教育は,人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と定めた。旧法において「真理と正義を愛し,個人の価値を尊び,勤労と責任を重んじ,自主的精神に充ちた」と記述されていた部分を,「必要な資質」と省略しただけで,その前後はほとんど同じである。教育の目的自体を大きく変えるつもりはないということが,ここで確認できる。
特徴的なのは次の第2条で,教育の「目標」を5つ掲げて,基本方針を細かく書き込んだことである。第1条で省略した内容も,この2条の中に組み込まれている。

  1. 幅広い知識と教養を身に付け,真理を求める態度を養い,豊かな情操と道徳心を培うとともに,健やかな身体を養うこと。
  2. 個人の価値を尊重して,その能力を伸ばし,創造性を培い,自主及び自律の精神を養うとともに,職業及び生活との関連を重視し,勤労を重んずる態度を養うこと。
  3. 正義と責任,男女の平等,自他の敬愛と協力を重んずるとともに,公共の精神に基づき,主体的に社会の形成に参画し,その発展に寄与する態度を養うこと。
  4. 生命を尊び,自然を大切にし,環境の保全に寄与する態度を養うこと。
  5. 伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

問題となった愛国心表記を含めて,これを読んだだけで「けしからん」という人は少ないかもしれない。だからこそ,あっけなく改正が成ったのだろうが,気になるのは,全ての項目が「態度を養う」という表現になっていることだ。旧法に,「態度を養う」という表現は一度も出て来ないので,これは今回の改正案を書いた人たちの独特の発想を表している。
態度とはつまり外形であり,目に見える部分である。これは内心には踏み込まないという配慮を表すものであろうが,教育の目標が全て態度に着目していることはやや異常に映る。これは下手をすると,外形だけを整える,形式偏重の教育を導きかねない。例えば,差別意識を温存したまま差別用語の使用を禁止して,形式的には「差別のない教室」が実現される。教育する側にとって,これでは志が低いということにならないか。教育される側にとっても,「その程度」の教育だと軽んずることにならないだろうか。する側とされる側の結び付きを緩める効果をどう考えるか,本来なら時間をかけて議論すべきポイントだったのではなかったかと思う。
また当然に,態度を養うための強制的な教育方法が,内心の自由を侵害するものではないという理由を伴って正当化される可能性がある。教育を受ける子どもの人権をどうやって保障するかという観点から,対抗論理を構築しておかなければならないだろう。
重要なことは,この新しい教育基本法もまた,日本国憲法の精神に則って制定されたものであり(前文),その解釈・運用は,日本国憲法の人権保障理念に沿ったものでなければならないということである。自由と民主主義,人権保障と法の支配がこの国の基本理念だとするならば,その価値の継承を阻害するような教育方法が採用されないよう,教育行政及び教育現場を監視し続けなければならない。それが,この国を愛する者の責務ではないかと考える。